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スロー・イズ・ビューティフル
~安息日のロウソクを灯す

12月初め、函館での第一夜は、自分の教えている大学へぼくを招いてくれたヒレル・ワイントローブの家だった。「これは不思議な家なんだ」と、玄関で靴を脱ぐなりヒレルは言った。「なんとガラス窓が六重にできている。断熱性がいいらしくてこのストーブひとつで家中暖かい」。京都から函館に引っ越したヒレルが借りることになったこの家は、『世界でいちばん住みたい家』という本で紹介された「木の城たいせつ」社のエコ・ハウスだったのだ。ぼくから逆にこのことを教えられて、ヒレルは「何かいわくのある家だとは思っていたよ、でもまさか、“世界でいちばん住みたい家”だったとは」と照れたように笑った。そして、「そういえば」とばかり、壁の中のダクトを暖かい空気が回るしくみとか、各部屋についている換気用の小窓とか、よい香りのする風呂場の木製の壁とかをうれしそうに案内してくれた。

二階への階段が湾曲するあたりに結構大きな包みや容器が置いてある。家具の少ないひとり暮らしの家、しかも玄関の真正面だけに目立つ。よく見れば数匹の大きな目をした虫の絵が貼り付けてある。「これは何?」というぼくの短い問いへの答えは、どのようにして彼が何百という鈴虫の卵を越冬させ孵{かえ}しては、自分の教え子たちに配るようになったかという長い物語だった。それは彼がどんな風にして60年代の終わりに戦争を忌避しようとして旅に出て、アジアにやってきたか、という物語と同じくらい長かった。外は粉雪。ストーブとロウソクの炎だけで暖かな「木の城たいせつ」の家の居間で、ぼくたちはチーズをつまみに赤ワインを飲んだ。まだ眠れずにいる鈴虫の卵たちが聞き耳をたてているような気もした。

朝はぼくのためにヒレルが、ベーグルにクリームチーズとロックス(スモークサーモン)というニューヨーク風の朝食を用意してくれた。昔、北米のユダヤ人多住地区に暮らしていた時のぼくにはこれが日常的な食事だった。食卓に向かいながら、しかし彼は食べない。コーヒーも飲まない。聞けば彼はラマダンの断食中だという。ペンシルヴェニア州出身のユダヤ系米国人である彼がイスラムの断食月の最中だというのだ。9月11日のテロ事件と関連があるのか、とぼくはふと思ったが、そういうわけでもないらしく、数年前に「精神的{スピリチュアル}な理由」で始めたという。彼によると、ラマダンの間は毎日夜明けから日暮れまでの飲食が禁じられるが、そればかりではない。性的接触が禁じられる他、「ノー・アンガー」、つまり怒りや憎しみを抱くことが禁じられている。ぼくだけが食べる食卓をふたりで囲みながら、ぼくたちは多分同じことを考えていた。ラマダン中のこの世界に今、黒々とした怒りや憎しみが渦巻いていること、を。

カナダに住んでいた頃、ユダヤ系の友人たちにつき合って「ヨム・キプール」の断食をしたことをぼくは思い出した。ユダヤ暦の一年を彩る様々な聖なる日(ホリー・デイ)の中でも、最も重要な日とされるこの「贖罪の日」は、非伝統派を含む多くのユダヤ人が終日断食する。「過越しの祭」の楽しくも厳かな宴にも幾度か招かれた。聖なる時間は、しかし、こうした特別な儀礼に限られているわけではない。世界の様々な場所に散らばったユダヤ人の多くは今も、毎週金曜日の日暮れ、ロウソクの灯のもとに集って「聖なる日」{サバト}の始まりを祝う。子供の頃のサバトのことを、ロウソクの炎に照らし出された家族の顔を、ヒレルは今も懐かしく思い出すという。サバト中は終日点火、点灯が禁じられている。聖なる時間はエコロジカルな時間なのだ。でもそれでは不便だとばかり、非ユダヤ人を点火役に雇ったり、自動点灯装置をつけたり、「抜け道を用意しておく人が多いけどね」と、ヒレルは苦笑する。

「それにしても日本人の聖なる時間はどうなってしまったんだろう」とぼくは独り言のように言った。「ふーむ」と唸ったきりヒレルは考え込んでしまう。そこでぼくは次のようなことを喋った。

ぼくが北米に移住した1970代の終わりにはまだ、米国にさえ日曜日が特別な日だという感覚が根強く残っていて、ほとんどの商店が閉まっていた。土曜日も早々と店を閉じる店が多かった。日本からの訪問客はよくこれに憤慨したものだ。「なんて不便なの?」、「商売をまじめにやる気があるのか?」。80年代の初めといえば「ジャパン・アズ・ナンバーワン」などとおだてられ、日本人がすっかりその気になっていた頃。アメリカでも日本にならって日曜日をショッピングの日にしないことには、国際競争に勝てないという意識が高まった(とぼくは想像する)。言うなれば聖なる時間の自由化であり解放だ。そして急速に様々な規制が撤廃されて、日曜日に開業する商店が増えていった。

その頃から、営業時間も増える一方になっていく。今度は「セブン・イレブン」とか「am.pm」とかの昼夜営業型のいわゆる便利(コンビニエンス)ストアがアメリカから日本に渡り、その日本の津々浦々にはやがて24時間営業のコンビニが出現し、その煌々と照る蛍光灯の灯りが夜の闇を自由化し、解放した。24時間営業といえば、日本には500万台もの自動販売機がいつ来るともしれない客を待って電気で稼動しつづけているのだが、この点、欧米はいまだ日本の「便利さ」の足元にも及ばない。クリスマスや聖バレンタイン・デーといった西洋起源のホリー・デーに向けてむき出しの商戦が展開されるのはもちろんのこと、正月三が日のような伝統的な聖なる時間もまた風化の一途を辿っている。一方、忍び寄る不況の影におびえたブッシュ大統領は就任早々、好況を維持するためには毎週ひとつからふたつの発電所を建設することが必要だとするエネルギー政策を発表、9月11日以降の国民の消費意欲の減退を恐れた彼は、街へ出て金を使うことこそがテロと闘う愛国者にふさわしい行動だと煽っている。今や消費、そして浪費こそが「聖なる行動」だというわけだ。

そんなぼくの話にじっと聞き入っていたヒレルはやがて、「そういえば、君に見せたいものがある」と言って、二階へ上っていき、一冊の本を手に戻ってきた。父親の形見だが、引越しの際に見つけるまで何十年も荷物の中に埋もれたままになっていたのだという。ユダヤ学者アブラハム・ジョシュア・ヘシェルの『安息日(ザ・サバト)』というちょうど五十年前の本だった。それはこんな風に始まる。

「技術文明とは人類による空間の征服である。その勝利はしばしば存在のもうひとつの本質的な構成要素である時間を犠牲にすることによって達成されてきた」。空間の征服としての文明を一概に否定しようというのではない、と筆者は言う。しかし問題なのは、我々がともすると空間の世界における力の拡大にばかり気をとられてしまうことだ。そしてそれは現に起こっていることなのではないか、と彼は憂えている。

へシェルによれば“空間の領域”と“時間の領域”ではそもそも目標が全く異なっている。

「時間の世界の目標は、“もっている”ことでなく“ある”こと、所有することではなく与えること、支配することではなく分かち合うこと、征服ではなく合意」

聖書の創世記に「神は第七日目を祝福し、それを聖なる日とした」とある。これは空間的なモノではなく、時を聖なるものとしたところに重大な意味がある、とへシェル。同様にユダヤ人にとって週に一度の安息日{サバト}の意義は、空間的なモノに支配された日々から解放されて、時の聖性を祝うことにある。

「サバト、それは時間の聖域。生存のための戦いにおける休戦。すべての対立の停止。人と人との間の平和。人と自然との間の調和。人の内なる和平。その日、金銭を扱うことは神への冒涜となる。人はモノを神聖化したり、依存したりするのを止め、それらからの自立を宣言する。日々の汚れや緊張から解放され、時間のくにのうちに自主独立の主体として自らをうち立てる」

ユダヤ教徒でもキリスト教徒でもないぼくたちに「第七日目」はない。しかしそれでも人生のあちらこちらにかつてモノの世界が入り込むことのできない「時間の聖域」があったはずなのだ。安息が、静けさが、遊びが、楽しい語らいが。それらはどこへ行ってしまったのか。

断食中のヒレルはしかし空腹やのどの渇きを抱えているようには見えない。おもちゃ箱みたいな彼の大学の研究室で、彼はぼくだけのためにハーブティーをいれてくれた。また彼が友人知人と教材として共同製作したという一冊の本も見せてくれた。一冊とはいっても、それは厚紙でできたカラフルなページの数々がバラバラのまま綴じられていない本。箱の中に同封してある紐や輪を使って、読者が思い思いに組み立てながら作るようになっている。題して『プレイフル(遊び好き)』。

ヒレルは中から特に一枚の厚紙を引き出してぼくに示した。「アンプラグ」と名づけられたページだ。そこには和文と英文でこうあった。

「自分のコンセントをちょっとの間ぬいてみよう。それがなくなって困ってしまうと思うもの、必ずこうしなきゃならないと思っていること、それをぜ~んぶいっしゅんだけあたまのなかで自分からはずしてみよう。自分にもどってみよう・・・」

ぼくは思った。「コンセントを抜く」とは、モノの世界からふと時間のくにへと浮遊することだ、と。「スロー・イズ・ビューティフル」とは、単に時計で計れるような物理的な時間の節約のことではない。シンプル・ライフとは、ただ物理的なスペースを取り戻すことではない。省エネ循環型の暮らしとは、単に資源やエネルギーを節約したり、環境破壊に歯止めをかけることではない。エコロジカルとは技術用語ではない。それは魂の取り戻しを意味することばだ。それは自分の人生に聖性を回復すること。そして魂を遊ばせること。

安息日にロウソクを灯す。ぼくたちの革命はそこから始まるのではないか。


参考文献:
赤池学、金谷年展『世界でいちばん住みたい家』(TBSブリタニカ、1998)
Abraham Joshua Heschel, The Sabbath: Its Meaning for Modern Man,
New York:Farrar, Straus and Young, Inc., 1951
ヒレル・ワイントローブ他『PLAYFUL』(ベネッセ・コーポレーション、1999)