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辻信一最新刊
『弱さの思想 たそがれを抱きしめる』

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辻信一さんの最新刊、『弱さの思想 たそがれを抱きしめる』が2月20日に大月書店から発売されました。
その中の「はじめに」を全文(原文まま)をご紹介させて頂きますので、是非お読みください。

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はじめに

本書のもとになったのは、ぼくと高橋源一郎さんとが共に務めている明治学院大学国際学部で、2010年から13年にかけて行われた「弱さの研究」というささやかな共同研究である。ことのはじめは2009年の春、大学でのとあるパーティの場で隣り合わせたぼくたちのとりとめのない会話が、なぜか、あっという間に共同研究の話へと発展した。それまでは高橋さんと何か記憶に残るような会話を交わしたという記憶もないのだが。それにしても不思議な縁のありようだったとぼくには思えるのだ。自分が経験したばかりの個人的な危機を、興奮を抑えきれないというようにーどちらかと言えば朗らかにー語る高橋さんの姿が忘れられない。
その辺の事情については本文の中で、彼自身から語ってもらうことになる。ここでは、高橋さんとの共同研究を始める以前から、ぼくがどのようにして「弱さ」というテーマと自分なりにつき合ってきたか、そしてそれが、環境運動家としての、文化人類学者としてのぼくにとってどういう意味をもっていたか、振り返っておくことにしたい。

「べてるの家」との出会い
「弱さ」を自分のテーマとして自覚するようになったきっかけは、北海道浦河にある「べてるの家」という精神障がい者たちを中心とするコミュニティとの出会いだ。まずぼくが「べてるの家」の存在を知ったのは、『変革は弱いところ、小さいところ、遠いところから』(2002年、太郎次郎社)という本によってだった。以前から新潟を中心に地域運動を進め、町づくりやコミュニティ・ビジネスの分野で活躍してきた著者の清水義晴さんは、その本の冒頭で「べてるの家」を紹介し、「弱さ」を中心にした組織づくりやコミュニティづくりを論じていた。清水さんがその後プロデューサーとして制作に取り組んだ映画「降りてゆく生き方」は2009年に完成、今も全国で上映運動が進んでいる。
ぼくが『スロー・イズ・ビューティフルー遅さとしての文化』(平凡社)という自著で「遅さ」という名の「弱さ」に注目したのが2001年だから、その頃から、ぼくなりに、清水さんやべてるの「変革は弱いところから」という考え方を自分の中で温めていたのだと思う。以来、環境問題などを通して社会変革のための運動に関わる者の1人として、ますます弱肉強食的な性格を強めるグローバル競争の時代に、「弱さ」というテーマを深め、役立てることに関心を寄せてきた。
その後、「べてるの家」を実際に訪れて親交を結ぶにつれ、彼らが「理念」と呼ぶ「弱さの情報公開」や「弱さを絆に」という合言葉が、単なるキャッチフレーズではなく、まさに生きた理念として、コミュニティを支えているのを実感することができた。またべてるの創立メンバーの1人であるソーシャルワーカーの向谷地生良さんを通じて、べてるの理念の背景に、「弱さにこそ神の栄光があらわる」といったキリスト教の教えがあることを知り、「弱さ」という概念を中心に置く思想として宗教を見直すきっかけにもなった。
高橋さんとの「共同研究」を始めるにあたっても、向谷地さんに外部研究員として参加することをお願いし、2010年には公開研究会を開いて、3人で話し合ったものだ。

サティシュ・クマールとシューマッハー
「弱さ」というテーマに関して、もうひとつ、ぼくにとって重要だったのはインド人思想家サティシュ・クマールとの出会いだった。彼は20代半ばだった1960年代始め、ガンディーの非暴力平和の教えに従って2年半にわたる「平和巡礼」を行い、核兵器を保持する4カ国を巡る1万4千kmの道のりを一銭も持たずに歩き通した。その後、『スモール・イズ・ビューティフル』(講談社)で知られる経済学者、E.F.シューマッハーに出会い、1973年にそのシューマッハーに請われて『リサージェンス』誌の編集主幹となる。以来、この雑誌は世界のエコロジー思想の知的拠点であり続けている。
クマールはシューマッハーの「スモール」の思想や、東洋の知的伝統の中に脈々と流れる「シンプル」の哲学を今日に継承する人だ。そしてぼくにとっては、エコロジー思想において、「弱さ」というコンセプトがもつ本質的な意味を、その思想と行動によって見事に体現してくれる人だ。
2000年代後半に彼との親交を深めたぼくは、何度かにわたる彼の来日ツアーに参画し、2009年の来日時に撮影したいくつかのインタビューを、2010年にDVDブックとしてまとめた。その中で、クマールは、ともに「力」と訳される英語の「パワー」と「フォース」という二つの言葉について、次のように語ってくれた。少し長くなるが、「弱さ」をエコロジーへと繋ぐ視点として重要だと思うので引用したい。

ともに「力」と訳されますが、「パワー」は「フォース」と違って、内なる力のことです。例えば、種子は木となる潜在的な力をもっている。それがパワーです。人間は誰でもブッダやガンジーのように、偉大な人になれるパワーをもっている。この内なる力がパワーであり、これこそが真の強さです。
一方、フォースとは外なる力です。例えば、軍隊や警察は、銃、戦車、核兵器、監獄などの強制力をもちます。人々を投獄し、拷問する暴力もまた、外なる力です。規則、法律、軍隊、武器、政府などによって、外から与えられる力――それがフォースです。お金というフォースによって、それが他人に権力をふるうこともできる。
フォースが他人への強制力であるのに対し、パワーは自分の内に働く力です。イエス・キリストは、パワーにあふれる偉大な人物でした。しかし彼は、「弱き者が世界を受け継ぐ」と言っていますね。この「弱き者」とはフォースをもたない人のことです。
弱き者は、腕力もずる賢さもなく、花のように柔和で優しい。花はしかし、パワーにあふれている。花はそのパワーで人を魅了します。その香り、やわらかさ、美しい色彩によって。また、自らを果実へと変えるパワーもあります。この花の力はフォースとしての強さではありません。パワーは、柔和で、穏やかで、目立たず、控えめです。花はなんと謙虚でしょう。押しつけがましいところがありません。真の力とはこのように、控えめで優しいものなのです
例えば、流れ落ちる水のように水はパワーにあふれていますが、いつも下へ向かって流れていく。決して上に向かわず、下に向かう。それが水の謙虚さです。土もとてもパワフルですが、謙虚です。英語の「土」と「謙虚」という言葉は同じ語源から来ているんですよ。土はいつも下にある。でも、食べ物を育て、保水する力を秘めている。建物を支え、私たちに歩く場所を与えてくれます。それほど強力なのに、しかし、土は何も強要しない。
(『サティシュ・クマールの 今、ここにある未来』(2010、ゆっくり堂)

ここには古来からの東洋思想とシューマッハーの思想がこだましている。思えばシューマッハーは、生態系という「制約」と「限界」の中に万物が調和する姿に注目し、すべての生き物が「成長をいつどこで止めるかを心得ている」という「神秘」を、「小さいことは素晴らしい(スモール・イズ・ビューティフル)」と表現したのだった。そして、彼はこのエコロジーの観点に立って、有限性を敵視し、「無限成長」を唱え、貪欲を称揚する現代の主流経済学を痛烈に批判したのだった。
「人間の顔をもった技術」という記念碑的なエッセーの中でシューマッハーは、聖書の「山上の垂訓」(マタイによる福音書)を引き、そこには「生き残りのための経済学」の土台となる基本的な考え方がきわめて的確に示されている、と語った。

・・・柔和な人たちは、さいわいである、
彼らは地を受けつぐであろう。・・・

それを受けて、シューマッハーはこう言ったのだった。

われらは柔和な道と非暴力の心を求める、
小さいものはすばらしい。
(『スモール・イズ・ビューティフル』)

こうした観点に立てば、環境危機とは、科学・技術や金融工学によって次々に人間の有限性を突破していくという現代の物語が必然的に生み出した結末だということがわかる。とすれば、この危機を超えていくには、もう一度、スロー、スモール、シンプルという「制約」の中にあるそれぞれのあり方に立ち戻るしかない。言い換えれば、「弱さ」をもう一度わがものとして抱きしめることが必要になるのだ。「制約」を突破する「強さ」(フォース)を偏重するのが文明というものだとすれば、文化人類学で言う「文化」の中にこそ、「制約」という「弱さ」を受け入れ、抱きしめ、それをポジティブな力(パワー)へと変える智慧が秘められているのではないか。

堕天使としての人間
15年前も前にぼくが「身体の有限性」について考えていたことが思い出される。ぼくを導いてくれたのは、ドイツや北欧の思想の研究家である清水満さんの著書『共感する心、表現する身体』(1997、新評論)だった。そこで清水さんは『ベルリン天使の詩』(1987、ヴィム・ヴェンダーズ監督)という映画を題材に身体論を展開していた。
この映画では、主人公である天使が、ふと立ち寄ったサーカス小屋で、にせの羽をつけたブランコ乗りの女性に恋をしてしまう。しかし恋は天使には禁物だ。なぜならば、天使には肉体がないから。清水さんは言う。

感性というものは、有限な肉体をもつものだけに与えられている。好きな人の頬や身体に触れ、相手の存在の重みを自分の身体で受け止め、触れ合うことにより、空間的に隔てられていること、その距離を埋めることができるのはただ身体をもった有限な存在者だけなのだ。」(『共感する心、表現する身体』)

主人公の天使は恋する相手のところに行くために、堕天使となる。身体を得るために、彼は永遠のいのちを捨て、時間・空間という制限をもたない遍在的な存在であることをあきらめるのだ。
「身体をもつ有限な存在だからこそ、僕は僕でしかなく、僕は君でありえない」。身体をもつが故に、空間的には、いる場所を一ヶ所に限定され、時間的にも現在という一点に限定されている。それが人間の、身体的存在であるが故の有限性だ。
だが、この有限性があればこそ、人間は表現的な存在でありうる。つまり「僕が君でないからこそ、僕の思いを君に向かって身体を使って表現する」のであり、「互の手と腕が感じる相手の存在の充実の中で、世界の確かさを、いわば自らの身体によってつくり上げていく」のだ、と清水さんは言う。
これを受けて、ぼくは『スロー・イズ・ビューティフル』の中でこう述べたのだった。「身体とは、表現とは、このようにスローなプロセスだ。そこでは時に、いつ終わりがくるともない曲がりくねった道を切ないほどゆっくりと進むように感じられる。これが天使ならぬ人間のコミュニケーションというものだ」。さらに、こう言ってもいいはずだ。堕天使が抱え込んだ有限性=弱さこそが、人間を人間としている基本的条件であり、人間存在の本質である、と。

「弱さの強さ」へ向かって
以上、「弱さの研究」以前の、「弱さ」をめぐるぼく自身の思索の一端を見ていただいた。
一方、高橋源一郎さんがどのようにして「弱さ」というテーマに立ち至ったかについては、対話の中でご本人からじっくりお聞きすることにしたい。準備期間を終え、いよいよぼくたちの「弱さの研究」が、2010年4月から正式に始まるのを前に、大学に提出された申請書の中で、高橋さんは「研究目的と意義」を次のように論じていた。

社会的弱者と呼ばれる存在がある。たとえば、「精神障害者」、「身体障害者」、介護を必要とする老人、難病にかかっている人、等々である。あるいは、財産や身寄りのない老人、寡婦、母子家庭の親子も、多くは、その範疇に入るかもしれない。自立して生きることができない、という点なら、子どもはすべてそうであるし、「老い」てゆく人びともすべて「弱者」にカウントされるだろう。さまざまな「差別」に悩む人びと、国籍の問題で悩まなければならない人びと、移民や海外からの出稼ぎ、といった社会の構造によって作りだされた「弱者」も存在する。それら、あらゆる「弱者」に共通するのは、社会が、その「弱者」という存在を、厄介なものであると考えていることだ。そして、社会は、彼ら「弱者」を目障りであって、できるならば、消してしまいたいあ、どうでなければ、隠蔽するべきだと考えるのである。
だが、ほんとうに、そうだろうか。「弱者」は、社会にとって、不必要な、害毒なのだろうか。彼らの「弱さ」は、実は、この社会にとって、なくてはならないものなのではないだろうか(かつて、老人たちは、豊かな「智慧」の持ち主として、所属する共同体から敬愛されていた。それは、決して遠い過去の話ではない)。
効率的な社会、均質な社会、「弱さ」を排除し、「強さ」と「競争」を至上原理とする社会は、本質的な脆さを抱えている。精密な機械には、実際には必要のない「可動部分」、いわゆる「遊び」がある。「遊び」の部分があるからこそ、機械は、突発的な、予想もしえない変化に対処しうるのだ。社会的「弱者」、彼らの持つ「弱さ」の中に、効率至上主義ではない、新しい社会の可能性を探ってみたい。

本文の中でも話すことになるのだが、ぼくたちの共同研究は一年足らずで、あの東日本大震災の日を迎える。それから間もなく、ぼくは大学に提出した中間報告書にこう記した。

・・・本研究会の活動は・・・大震災とそれに続く福島第一原発の重大事故によって大きな影響をこうむることとなった。ある意味では、「弱さ」という本研究会のテーマそのものが・・・根底から揺さぶられ、問い直されたとも言える。
文明(強きもの)が自然(弱きもの)を支配するという近代的な図式が、一挙に逆転して、自然の猛威を前にした人間社会の弱さ、自然に対する支配としての科学技術が孕む弱さ、自然を外部性として閉め出すことによって成り立つ経済システムの弱さ、自然と切り離されたものとしての人間の弱さなどが暴露された。いわば、近代文明の「強さ」であったはずのものが「弱さ」へと転化したのである。逆に、近代的な社会の中で、「弱さ」と見なされてきたもの——巨大化、集中化、大量化、加速化、複雑化などに対する「スモール」、「スロー」、「シンプル」、「ローカル」といった負の価値を荷なってきたもの―が元来もっているはずの「強さ」(レジリアンスやロバストネス)が浮かび上がってきたのではないか。この逆説的な事態―「強さの弱さ」と「弱さの強さ」―こそが、ポスト311の月日のひとつの重要な特徴ではなかったろうか。・・・

そしてぼくは、こうつけ加えた。

・・・「弱さ」という負の記号を荷なうものに注目し、そこにポジティブな・・・価値や意味を探るということこそ、本研究会の当初からの課題に他ならない。その意味で、ポスト311の日本とは、我々の研究にとっては最適なフィールドであるとも言えるだろう。

この本の読者は恐らくご存知のように、このポスト311というフィールドで、高橋さんは作家としてばかりか、社会批評家として、ジャーナリストとして目覚ましい活躍をされてきた。ぼくもその彼の優れた仕事に刺激を受け、学ばせていただいた者の一人だ。しかも共同研究を通して、「弱さ」という同じテーマを共有しながら、言わば彼の思索や行動のプロセスを傍らで見聞きできる機会を得たのはまことにありがたいことだった。
こうした貴重な機会を与えてくれた明治学院大学国際学部のわが同僚たちに感謝したい。そして、高橋さんとぼくとがフィールドワークのために訪れた各地でお世話になった方々、「弱さの研究」を外部研究員として支えてくれた向谷地生良さんはじめ「べてるの家」の皆さん、そして研究成果をこうして一冊の本にしてくださった大月書店にも、この場を借りて謹んでお礼を申し上げたい。

2013年12月 辻 信一