ゆっくり小学校 ≫ 婦人之友誌連載

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スロー・スモール・シンプルといったゆっくり小学校のキーワードはみな、現代社会においては否定的な意味を担わされています。スローは十分に速くないこと、スモールは十分に大きくないこと、シンプルは十分に多くないこと、というふうに。「勝ち組」「負け組」というぼくの嫌いな表現を使えば、どれも「負け組」です。

一方、勝つためには、「より速く、より大きく、より多く」を目指さなければならない。でも、「これでもう十分に大きく、速く、多い」という満足のいく状態にはいつまでも届かない。とすれば、「勝ち組」とはまるで「絵に描いた餅」。つまり、人はみな多かれ少なかれ「負け組」なのです。

しかし、そもそも人生を勝ち負けで考えたり、社会を競争の場と考えたりする、現代の多くの大人たちの発想そのものがおかしい、とわがSSSは考えます。

「勝敗」とか「強弱」という思考の習慣をアンラーンする(ほどく)ことです。

聖書にも、強者ではなく「柔和な者」、つまり弱者が「世界を受け継ぐ」とありますね。サティシュ・クマールによれば、〝力〟には、各自に備わっている内発的な力としてのパワーと、外からの強制力としてのフォースという二つの意味があります。「弱さ」とは、ただフォースとしての力に欠けているということ。しかし、弱き者がパワーに溢れていることは多い、とサティシュは言う。

花はその香り、美しさで人を魅了し、自らを果実に変える。そのパワーは柔和で、穏やかです。「真の力とはこのように控えめで優しいもの」だと彼は言うのです。同様に、いつも下方へと流れる謙虚な水や、下に横たわっている寡黙な土は、底知れぬパワーですべてのいのちをそっと支え続ける。

それが弱さの力だ、とサティシュ。本当の力とはそういうものなんだよ、と。 究極の弱さ、それは仏教でいう「生老病死」つまり、人間が病み、老い、いつかは死んでゆく身体的な存在であるという事実です。

『ベルリン・天使の詩』という映画は、地上の世界にやってきた天使が、人間の女性に恋をして〝堕天使〟となる物語です。人を愛するためには身体が必要です。彼はそのために、時間や空間の制約をもたない遍在的な存在であることをあきらめ、永遠のいのちを捨てるのです。

堕天使は、生老病死という人間の根源的な弱さの中に身を沈めます。それなしに愛は不可能だから。つまり、天使は愛するために人間になるのです。

ぼくたちはみな堕天使なのかもしれませんね。